Key作品の感想など

ヘブバン[第五章前編]感想

ヘブンバーンズレッド第五章前編『魂の仕組みと幾億光年の旅』備忘録
※ネタバレ注意

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


「何故死なないのか」こそが「何故生きるのか」であり、その理由は一人一人が「この私」に問うしかない。
「この私」を見つけた樋口の生きたいという意志がバトンとなってユキに繋がり、ユキの呼吸が月歌の息を吹き返した。

そもそも「この私」はオリジナルではないのに何故戦うのか、31Aと色葉が個々に突き詰めたのが第四章だった。一方で樋口は最初からアイデンティティの保持を前提に二度目の樋口聖華を生き始めたイレギュラーな存在だった。
とはいえ樋口は自死の代償に、美味しいものを喜ぶような豊かな感情を失ったという。研究には没頭しても何が楽しくて生きているのか、いちごがいくら掘ろうとしてもそこには何もなかった。

樋口はたった一人、何も知らずに「人間」として生きる仲間の中で、生の喜びを忘れ、ただ死と向き合って過ごしてきた。素朴に生を肯定するあいつらとは違う自分を生きてきた。
彼女ほどのバックボーンがなくとも、幸せそうな「あいつら」との境界線を引いて生を呪う人間は物語の外の現代には当然のように溢れ、私もまたその一人だ。

そんな樋口に突然二度目の死が迫り、樋口聖華ではなくなる次の生をリアルに想定した時、初めて樋口は「この私」である樋口聖華を見つけた。死の研究も、「あいつら」を見下す精神も何もかも忘れて幸せを謳歌する人間に生まれ変わってしまうことを拒んだ。樋口聖華として31Bのバカな連中を馬鹿にする時間を楽しんでいた自分に気付いた。蒼井の名すら出てきて涙腺が壊れた。

見下していたいから死なない。あいつらのように生を単純に肯定できない「この私」でありたいから生きたい。他の誰でもない、樋口聖華は生きたい。
屈折した、けれども強烈なその願いは自死を止める他のどんな理屈よりもストンと沁みてきて、物語に対する涙を超えて現実の自分の涙が止まらない感覚があった。生きることをそんな風に肯定することが出来ると私もまた初めて気付いた。

樋口以外の隊員も皆が健康な精神を生きているわけではなく、一人一人に苛烈な記憶があり、伊達にせよ小笠原にせよシャロにせよ、死と近接した上で今の生がある。

ユキは、自分を二度現実に繋いでくれた月歌を失った時、アイデンティティの崩壊を超えて生きる拠り所そのものを失った。
生気のない足取りで思い出の場所を彷徨うユキを見ていて心が千切れそうだった。絶望の底でいっそ知性を失おうとするのは当然に思えた。でもそんなのってないよ、と無責任にも感じた瞬間、今のユキに対して無責任ではない言葉を掛けられる唯一の人物であろう樋口が止めに来てくれた。

自死の因果応報で、次の生では豊かな感情が死ぬ。突拍子もない話だけれど、実際に経験している樋口だけが語れる魂の仕組みだ。
月歌がもういなくても、月歌を想う気持ちだけは忘れたくない。月歌を好きになった自分のままでありたい。それがユキの見つけた死なない理由、失いたくない「この私」だった。
そして結果的に、ユキが前を向いたことで月歌との生が取り返される。

一方の月歌は、ユキたち仲間と戦うことに重心を置いてアイデンティティの問題を乗り越えていたけれど、戦いに身を投じる以前に茅森月歌として生きてきたのも「この私」ではないかと知ってしまった。
ならば「この私」が生きてきた過去も肯定できるのか、記憶を辿って確かめねばならなかった。

月歌にとって自らの生を肯定することは、母からの肯定を必須とした。
ひたすら母のために歌ってきた自分は母の本当の娘ではなかった。それを母は許してくれるのか。許されなかったから母は死んだんじゃないか。
精神世界で母と会う度につい「どうして死んじゃったの?」と問いかけてしまう月歌は、いくら思い出を集めても不安で、自分という存在の足場を再び失っていくようだった。だから自分の消失を厭わず本物の月歌を救おうともがくことができたのかもしれない。

結局精神世界は可変の過去ではなく、本物の月歌が辿った運命には干渉出来なかった。その上、地球に来たナービィの悲劇の端緒は自分であると知ってしまった。
自分が茅森家に出会ったこと、月歌の代わりに生きて歌ったこと、仲間と戦ってきたこと、その全てを否定されたも同然だった。セラフも一刀しか呼べなくなり、死の淵にまで追い詰められた。

けれど、それでも、何もかも上手くいかなくても、あの世界で母が梳かしてくれたのは紛れもなくこの自分の髪だった。掃除機を掛けながら母が何度も迎え入れてくれたのはこの自分だった。その時間はこの世界に残っていた。
最後の邂逅と決めて、ずっと懺悔したかったことを伝えられた時、茅森月歌のコピーとして母と生きた自分を感謝の言葉で肯定された時、ようやく月歌は「この私」を認められた。時の中をもがいてもがいてようやく勝ち得た結末に嗚咽が止まらなかった。

月歌の死によって失われるかもしれなかったその結末を守ったのは、生きて月歌に息を吹き込んだユキと、月歌に集まった全セラフ部隊員の祈りだった。
誰に対しても気さくにあだ名で呼んで話しかけ、仲間のピンチは司令を無視してでも助け、誰かが悩んでいたら適切な距離感でアシストし、斬り込み隊の隊長として希望を示し、She is Legendの歌でドーム住民にまで活力を届ける今の月歌に誰もが救われ、皆月歌が大好きだった。

私だってそうだった。月歌救出作戦はプレイヤーの自分も含めた全員の切迫感と本気度がいつもと数段違った。キャンサーとの戦いがこんなにも怖かったのは初めてだ。
だからこそ、月歌の目が開いた瞬間心の底から歓喜が溢れてきて、ほっとして全身の力が抜け、清々しい気持ちの中で温かな涙が溢れた。蒼井を喪った、蔵を喪った、だけど今、月歌を喪わなかった。私は、ユキは、全セラフ部隊員は。

月歌は今の月歌として母に愛されていた。そしてユキが愛しているのは今の月歌で、めぐみもタマもつかさも可憐も他部隊員たちも司令官もななみんもどれだけ月歌を想っているか、これからの日々で月歌の心にもっともっと染み込んでいくよう願う。
月歌の隣を取り戻したユキにも幸あれ。結婚なんて関係をとうに超えた二人に祝福を。

第五章前編はひとまずこんな風に受け止めた。
ある意味、彼女たちが人間ではないからこそより一層人の生を追求する(AI研究が心理学を進めるように)物語を多角的に、深く鋭く進めていて凄まじい。
樋口がセラフ研究員であることがまさかそんな風に繋がるとは予想外だったし、ずっと心配だった31Bがようやく新たな出発を切れて安心した。精神世界で過去を辿る描写はKeyらしい雰囲気に満ちつつ、ミステリ要素もあってドキドキしながら進めた。蔵のために過去を辿った経験を幽かに覚えているユイナ先輩が月歌に助言する展開がまた泣ける。

帯電する関西へ戦いに赴き、パワースポットでめぐみんのサイキックを貯め、屋上で精神世界へダイブする。そんな日々のルーティンを繰り返してそれぞれの課題が進行してきた中、突如予想外の悲劇に殴られて最初は理解が追いつかなかった。
月歌ユキの別離はいつか描かれると思ってはいたけれど今だなんて思わなかった。憔悴するユッキーは本当に見ていられなかった。どうして自分なんかに構ってくれたんだという悲痛な本音に、そんな風に思っていたんだと胸が締め付けられた。

セラフ部隊全力の総力戦(ゲームとしても凄く大変だった)とユッキーの果敢な愛で月歌は救われたけれど、これは都合のいい物語ではなくて、突然命の危機に晒されることも奇跡の生還を遂げることも十分現実に起こる。
樋口が生を願い、ユッキーが生を選び、月歌が生かされたけれど、そもそも彼女たちの生は、エンドロールの先頭に名を刻む麻枝 准自身が大病から奇跡の生還を遂げたところから始まっている。
それに気付いた時、受け止め方が変わってくる。これは今の麻枝さんにしか書けない物語だ。

長いエンドロールを見届け、第五章中編の予告にトドメの衝撃を食らった。いつか来るとは思っていた可憐とカレンの話をいよいよ受け止めねばならないのか。朝倉推しとしては怖さと楽しみが半々だ。
思えば確かに月歌が離脱してからずっとカレンちゃんで、つかさもずっと覚醒していた。半ば漫才化していたあの二人が月歌ユキ緊急時の31Aにおいてあんなにも頼りになるとは・・・。

それにしても次はまさかの「中編」。改めて、これだけのボリュームと密度のゲームを作り続けられるヘブバン制作陣の本気に驚かされた。習志野ドームも今回の精神世界も、一人のために一つの世界を用意する気概がまず凄い。感情をより克明に喚び起こす楽曲の数々と、没入感を最高に煽るキャンサー戦の組み立て、ここぞという場面のイラストとアニメーション、全てが一体となって心を掴んでくる。ちょっと凄すぎて心配になるくらいだけど、関係者皆様なるべく健康に作れる環境であってほしい。本当にいつもありがとうございます。

ヘブバンを愛してきて良かった。麻枝 准を好きになり、ヘブバンに出会えた「この私」として生き続け、いつかこの物語を見届けたい。

原点回帰としての第四章後編

ヘブバン第四章後編についてふと思ったこと。(ネタバレ有)

麻枝さんはティーンの物語を描きつつ彼らに関わる大人を描くのが抜群に上手い作家で、初期作では家庭や町の大人との関わりが作品の肝であり旨みになっていたけど、リトルバスターズ!以降は大人のいない学園で物語が完結し、大人との対話で得られない変化は学園からの逃避を経て成されることが多かったと思う。

ヘブバンは基地に大人の影がほぼないリトバス型の世界観で今のところ描かれている。その内部で解決できないほどの痛みに直面したら逃避が必要になるけど、子供だけで閉じこもれる場所が戦時の基地の外にはない。

それで、第四章において自身の根幹を折られた彼女は単に基地=リトバス以降の学園の外の世界ではなく、大人のいる町=AIRCLANNAD的世界にまで回帰し逃げ込まなければならなかった。そこで老若男女の家族や住民と対話することが必要だった。

更にCLANNAD/智代アフターが成したように、大人と対話するだけでなく自分が大人の立場として子供と対話する必要もあった。そうやって過ごす一日一日は彼女の視座を大きく変えることになったし、大人たちそのものがやはりすごく魅力的だった。

麻枝さんのいちファンとして、第四章後編が原点回帰の感触で涙腺にクリティカルヒットしたのはその部分が大きいと思う。

彼女の物語を解決不能としたり基地内でなんとなく解決したりせず、解決できる世界の方を自身の原点から彼女のためだけに持ってくる麻枝さん、そんなこと普通思いつかないし愛情が深すぎる。

そして彼女の生き様はある意味、大病から生還してヘブバンで世を救っている麻枝さん自身にも通ずるような光を纏っている。

ヘブバン[第四章後編]感想

ヘブンバーンズレッド第四章後編『凍てつく息吹と爆ぜる感情』備忘録

※ネタバレ

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

自分の全てが他者のコピーと知って、救世主たる力がないと知って、戦う心を折られてしまっためぐみの物語はそこで終わりなのか。人類を救うセラフ部隊の、茅森の戦譚から弾き出されてしまうのか。

第四章前編の幕引きがあまりに衝撃で、このままめぐみはこの物語から、あるいは読者の自分がめぐみの物語から断絶されてしまうのだろうかと恐れた。断章でタマたちは信じて待つ態勢に入っていたけど、どう考えてもそう簡単に覆せる決断ではなかったし、めぐみを戦地に引き戻して戦わせるのは酷でしかないように思えた。

あれから9ヶ月、断章から半年以上、ヘブバンに触れたり触れなかったりしながら送る日常の中で、アイデンティティの根幹が奪われることについてふとした瞬間に意識しながら過ごし続けていた気がする。めぐみの想いに寄り添うほど、茅森達が仲間を拠り所に前を向けた意味も分からなくなっていた。

後編が来ると聞いてもその帰結に何が待っているのか分からなかった。何をしたってどうにもならないものはある。どうにもできない現実を描いてきたのがまさに麻枝准という作家である。それでも、「その先」の生き様を逃げずに真っ向から照らしてきたのも麻枝シナリオだった。

4月28日。意を決して第四章後編を開始すると、独りでバスに揺られるめぐみの姿が映った。あの別れの先のめぐみを初めて、こちら側としては9ヶ月ぶりに見た。それだけで心が激しく揺れる。

茅森のプロローグを挟んで逢川sideに切り替わった瞬間のやってくれた!!感は忘れられない。一本軸から弾き出されるのなら軸を二本にしてしまえばいいのか。めぐみは本当に帰って来るかもしれない、だとしたらここからどんな日々が待っているのか。

刑務所のような施設でドーム生活への適応準備をしていためぐみの独白は嫌に質感がリアルでヒリヒリした。現実世界でも心が壊れる前に逃げることは基本的な生存戦略だけど、逃れてハッピーエンドではなくその後もその後で面倒な膨大な人生が待っている。めぐみは自らの偽りの記憶を更に偽って生き続けなければならない。

習志野ドームに来たばかりのめぐみの戸惑いはプレイヤーの自分共々感じるものだった。ずっと基地の中で過ごしてきて、ドームのことは司令官から伝え聞く情報しか知らず、市井の人々が実際どんな暮らしをしているか想像出来ていなかったし、それは物語の外の話としてこれからも区切られ続けると思っていた。(個人的には本当にドーム状の建物で避難生活のように暮らしているのかと思い込んでいた)

戦争で物資もエネルギーも枯渇し、それこそ現実世界の日本の戦後、あるいは戦前のような生活様式にまで戻って、習志野ドームに関しては電力不足のギリギリの水準で暮らしている。

後で分かることだが温暖化も進んでいるようで、仮に今から29年後とすると2052年の地球環境というところだろうか。現実世界において環境問題を本当に食い止めるには生活様式を相当昔のものに戻す必要がある(が誰もそうはしない)だろうが、それは戦争という外圧でようやく達成できてしまうものなのかと複雑な気持ちになる。

毎日カフェテリアの豪華な食事を食べ、洋服店にゲーセンに映画館まで揃った基地内で手厚く英気を養わされていためぐみには想像を絶する現実だっただろう。めぐみが元々生きていた時代の記憶と照らし合わせても、あらゆることが諦められた後の暮らしとして映るはずだ。

めぐみが逃げたその先というのは、セラフ部隊員として厚遇されていたあの基地の外の世界であり、実感の伴わないまま守っていた人間の営みそのものだった。何度も「なんか、すまん」と心の中で謝ってしまうような現実がそこにはあった。そんなめぐみにとってドーム住民が概念としての「ドーム住民」からアキばあさんやルミ達一人一人の顔に変わっていく日々を、めぐみと一緒に体感していける予感がそこには満ちていた。

クセ強なアキばあさんや聡明でかわいいルミと出会い、習志野ドームの慎ましくもクレイジーな暮らしに入っていくのが面白かった。今思うと最初は町の構造も分かってなかったし、新生活への不安が残るアウェイな気持ちだったのが懐かしい。

初めてミミズで魚を釣れたあの日。あかん懐かしい。初めて雑貨屋と会った衝撃も凄かった。居酒屋ノリのバー屋にちゃんこ屋ノリの氷菓子屋。CLANNADの春原のチャラ男版みたいなスクラップ屋に良い味出してるマセガキの斡旋屋。祈祷屋に天秤水平化屋に障子滑り良くさせ屋・・・次から次へと現れるすごい麻枝シナリオ住民っぽい○○屋たちがいちいち面白い。今となっては故郷のようなあのドームの全てが新鮮だった。

言葉では聞いていたセラフ放送の現場を実際に観られるのも感慨深かった。やはり顔は分からないように映しているというのが答え合わせになっていて細かい。そしてセラフ放送で茅森sideに切り替わった瞬間これまたやってくれた!!と唸らされた。

めぐみの一日一日と茅森たちの一日一日が交互に繰り返されるあのリズムの心地良さと、その形式でしか表れないコントラストの妙が本当に素晴らしかった。

茅森sideはいつものようにふざけつつも緊迫感の漂う作戦行動の日々であるのに対し、逢川sideは真夏の町で居候暮らしを始めるというKey作品の原点中の原点のような真新しい毎日で、AIR智代アフターやサマポケを愛する者なら誰もが郷愁を覚え涙の予感に包まれただろう。

朝が来て、毎日ちょっとずつ違うアキばあさんの朝ご飯を食べて、色んな○○屋と話して、ジュークボックスで(麻枝准の)音楽を聴いて(本当にありがたい)、釣りへ出掛けて、毎日ちょっとずつ違うアキばあさんのおにぎりを食べて、釣果を見せて、夜ご飯でルミが魚を食べてくれて、住民総出でセラフ放送を観る。一日一日を繰り返すごとにどんどん居心地が良くなって、繰り返しの日々だからこそ祭りの日は特別楽しくて。ルミの言うように、心を殺して働く平和よりもずっと生き生きと輝いた、ささやかで温かな幸せをここまで強く感じることが今まであっただろうか。めぐみがこのドームをいずれ去る日が必ず来るなんて信じたくなかった。

日々、めぐみの気持ちが少しずつ変わっていくのをじっくり感じた。アキばあさんの優しさを少しずつ分かってきて、ルミや人々を守りたいと思う気持ちが少しずつ大きくなっていく。初めは「しばらく世話になるドームだから」と自覚的に線引きをしている様子だったけど、家族になってからはそういったモノローグも減っていた。

そんなめぐみ自身が何も持たない加藤エリとしてイカ釣りから一つずつ愚直に試行錯誤し、家族や住民たちを想って行動を続ける姿に私の心も動かされた。こんなにも人想いで真っ直ぐな人だったと知らなかった。自信満々で戦い、ツッコミとサイキックとタマの教育(?)に明け暮れていたあの頃のめぐみしか知らなかった。イカつい口調に隠された優しさはアキばあさんにそっくりだ。タマたちはきちんとそれを見抜いていて、そういう仲間を失ってしまった。

優しい正義の持ち主だからこそいつまでも心が晴れなかった。セラフ放送を見て寝付けなかった。信号弾を見て一目散に駆け付けた。あんなに平和な日々を送れば送るほど「なんか、すまん」どころではない罪悪感に苛まれていった。

ルミを始め、壊滅したドームから命からがら逃れてきた住民もいた。アキばあさんも関西から避難を続けて千葉で生きている。めぐみは今までドーム住民の過酷な現実を知らないまま戦っていた。

一方でドーム住民たちはセラフ放送をエンタメとして楽しみ、過酷な状況さえ演出と思い込んでいる。軍が「次回、○○作戦。お楽しみに」なんてエンタメ仕立てにしているせいではあるが、生き残っている人類をパニックにさせないための策としては仕方がない。めぐみだけが両方の現実を知ってしまったが故にジレンマの中で苦しめられる。

プレイヤーの自分もヘブバンの戦争をゲームとして楽しんでいる。そして今現実で起こっている戦争についてもテレビやネットの画だけで情報として消費しているに過ぎないだろう。どんな過酷の中で誰が戦っているのか知りもしない。茅森sideと逢川sideが同じ一日のまるで違う有様を辿るように、向こう側とこちら側はいつも並行線を辿っている。

茅森sideは國見sideを内包してもいた。めぐみが加藤エリとして奮闘する間、タマはめぐみと断絶された世界で必死に戦っていた。めぐみを引き留められなかったあのトラウマ的光景はタマの記憶の中のトラウマをも密かに喚び起こし、茅森へと語られた。

おタマさんの心根の優しさは人魚のイベストでも印象深く、陰で健気に鳩を救おうとした過去は実におタマさんらしかった。それでもタマは戦艦指揮のためだけに生まれ、乗組員に思い入れることすら自ら律して戦いに身を投じてきた。その優しい気質を他者に向ける機会を自ら封じてしまっていた。だから軽口を叩き合いつつ自分を助けてくれたメインコンピュータの処分を見送った時、初めて湧き上がった自らの感情を理解することが出来なかった。タマはヒト・ナービィ化する以前から、他者を媒介したアイデンティティの確立が出来ない問題をずっと抱えていたとも言える。

その世界を初めて変えてくれたのが31Aであり、おいタマァ!とビビらせつつ何かと気にかけてくれるめぐみだった。感情を分かち合ってもいい仲間を得たことがタマにとってどれほど大きなことだったか。その今のタマにとって、めぐみを引き留められなかったことがどれほど悔しくて恐ろしいことだったか。

5人での任務を強いられる31A自体も、大っぴらにではないがずっと苦戦していた。蒼井を喪った後の31Bのような立場に置かれ、ビャッコとの協働も砂漠地帯に阻まれ、斬り込み隊の完全体の実力を発揮できないもどかしさがずっと漂っていた。プレイヤー目線でも5人で進む道中はしんどいものがあり、打属性デバッファーのめぐみがいてくれればどれだけ違うかと何度も向こう側のめぐみを想った。

しかも明らかにフラットハンドの比ではない威力のスカルフェザーとかいう絶望が現れた。31Aもタマも相当追い込まれ、それは習志野ドームで放送を観るめぐみの心をも追い立てていった。31Aは今でも軍全体から一目置かれる最強部隊ではあるが相当心配はされていただろう。だからこそ31Cも動いた。

そのような状況で色々な部隊と合同作戦に臨めたことは苦戦する31Aに新たな風を吹き込み、お互いを拠り所に戦う31Aの強みを再度自覚することにも繋がってとても良かった。名前を呼ぶだけで連携する31E、ティータイムで心を整える31Fなどその部隊ならではの戦闘スタイルや絆を目の当たりに出来たのはプレイヤーにとっても楽しいものだった。交流シナリオで一人一人が茅森たちを想って励ましてくれたりしたのもすごく温かかった。前回のフラットハンド戦もそうだったけど、主戦場に出る31Aや30Gだけではなくセラフ部隊が一丸となって戦っている。

めぐみはめぐみで、家族となったアキばあさんの孤立問題を抱えて戦っていた。自身も白い目で見られてきた難しい立場でありながら、住民一人一人と対話を試み続けるめぐみの健気な強さに胸を打たれる。分かって欲しいと切実に願うほどアキばあさんが温かな人であることは、一日一日を過ごしながらプレイヤーの自分にも十分伝わっていた。

汗だくになって血を流してでも届けたかった熱意がついに闇取引屋・小説屋を動かした瞬間のカタルシスは凄まじかった。(祈祷屋お前も凄いぞ) アキばあさんはいつかルミやめぐみのことすら忘れてしまうかもしれない、それでもアキばあさんのために陰ながら戦い抜いためぐみの強さ。

ランタン飛ばしの日、そんな予感はずっと漂っていたけれどまさかと思っていた真実が明るみになり、一人静かに泣くめぐみの姿に涙が止まらなかった。母にとって喪った娘の記憶を引き継いだ存在とは一体何なのか。アキばあさんは今年のお盆もあの子は来なかったと、めぐみがどこかで生きていることを直感している。だが、母としてのアキばあさんの記憶を持つめぐみは隣に帰って来ている。自分がめぐみだなんて言えないまま。

タマもまた、めぐみに誇れる自分であろうともがき続けていた。めぐみを引き留められなかったトラウマは虎徹丸のメインコンピュータがくれた「やれることをやったのだから胸を張っていい」という言葉によって救われたけれど、めぐみの電子軍人手帳を胸を張って渡す日のために今やれることを全てやらなければというプレッシャーは自らに課したままだった。いつもはぎぃやぁぁああ!なおタマさんだが、元々艦長として責任感の強い気質なのだろう。

茅森も心配していたように、積極的に買い物大会や決起会を主催するタマなど今まで見たことがなく、戦闘でも毎回のように前へ出ようとする危うさがあった。タマがこのまま殉職してしまうんじゃないかと少しだけ思い始めた。それを守れるとしたら、やはり救世主しかいない。

終わりが来るとは分かっていたけれど、Day14が最終日と分かって本当に寂しかった。Day7くらいからもうずっとこの日々を続けたいと思い始め、少しだけペースを落としたりしたが結局物語の駆動に乗せられて読み進めてしまった。プレイヤーとしては最後になると分かっているルミとの釣りが信号弾で終わりを告げた時、そうだ、幸福な日常は突然終わるのだと辛辣に突き付けられた。

誰も太刀打ちできそうにない中型キャンサーがとうとう現れてしまった。どうにか出来るとしたらキャンサー追い返し屋もといサイキッカーで元セラフ部隊の自分しかいない。毎日のように交流したり、アキばあさんのことで対話した住民たちが、この生活を捨てるかどうかの瀬戸際に立たされている。全て失ってここに来たルミやアキばあさんが、また全てを失ってしまうのか。

14日間私が見て来た逢川めぐみはそこで何も為さない人ではなかった。フラットハンド戦で皆を失いかけ、救世主ではなかった現実に打ちひしがれ、加藤エリとしてリスタートした、今はセラフも持たないただのサイキッカーのめぐみ。目の前の老いた母に逢川めぐみだと言い出すことが叶わないめぐみ。逢川めぐみなのか加藤エリなのか、自分が誰なのかさえ分からないめぐみ。だけどそんな全ては消し飛び、今ここにあるのはルミたちの日常を守りたいという強い感情だけで、そのたった一つでめぐみは敵うか分からないキャンサーに対峙できる。

ずっと見失っていた自分という存在に明確な輪郭を与えてくれたのは、かつての逢川めぐみの記憶から生まれた訳ではない、加藤エリとしての振る舞いでもない、今の自分から生まれた新しい願い。自分が戦場で何を守ってきたのか、その先にどんな人たちがいたのか目の当たりにした今のめぐみだけが持ち得た戦う理由。

爆ぜろ!と渾身の一撃を放つめぐみを見ながらもうボロボロに泣いた。アイデンティティの根幹を折られためぐみが一人苦しみ抜いたのは全てこの瞬間のためで、救世主という予言は本物だった。良かったね、頑張ったね、と娘を見るような目で頷いてしまう。めぐみを鼓舞する○○屋たちも本当に熱くて、不安がる男どもを嗜めて発破をかける闇取引屋と小説屋の姿に涙が止まらなかった。このドームで家族として過ごせた14日間はめぐみにとっても自分にとっても宝物だった。

ヘリから降りてきたのが山脇様と分かってほっと力が抜けるように涙が湧き出た。恩義のあるめぐみが仲間で在り続けることを信じ、前線に立つ31Aに代わって探し続けていたのだろう。(ぜひイベストで描いてほしい) 戦う理由となる願いをはっきりと自覚しためぐみがそのヘリに乗らない理由はなかった。31Aが5人でもどかしさを感じてきたのと同じくらい、キャンサーと戦う力を失っためぐみの中にももどかしさがずっとあったように見えた。守れる力が本当はあった。今度はそれを「人類」や「ドーム住民」ではなく、幸せを願う一人一人のために。

突然の別れを受け入れざるを得なかったルミは最後まで聡明に、カトエリを逢川めぐみの使命へと送り出した。めぐみが最後まで生き残ってキャンサーを殲滅したとしても、見た目の年齢がいつまでも変わらないめぐみが再びルミと会えるかは定かではない。毎日釣りに出掛けて、一緒にご飯を食べて、ノリのいいルミと住民の会話を聞いて過ごしてきた。キャンサーが出るたびにルミを守ろうとした。ルミのためにもアキばあさんに向いた誤解を一人で解いて回った。そのルミのためだから、戦いに戻らなければいけない。

アキばあさんとの最後の別れは意味が分からないほど泣いた。初めて会った日から毎日毎日謎の荷物を背負っていたアキばあさんが、めぐみの好きだったジャングルジムを組み立てて帰りを待ち続けていたなんて、そんな・・・。タマたちもめぐみの帰りを信じているけれど、アキばあさんは引き留められなかった娘を30年以上待ち続けている。明らかに母と同じ記憶があるのにそれは自分やと言えないめぐみの気持ちを思うと胸が張り裂けそうになる。

どうしたって「あの子」と自分は違う存在だから、「あの子」に伝える言葉を預かることしかできない。その母の愛はたった今、隣にいるまさに「あの子」の続きを生きるめぐみに、長い長い時を経てようやく届いた。真心を手渡された毎日の記憶と共に、アキの娘である誇りをルミに託し、めぐみは家族から独り立ちする。

いよいよ比叡山決戦に臨む31Aは30Gと共に苦しい戦いを強いられていた。プレイヤーとしても相当苦しい戦いだった。凍りつく世界であと何度戦えばいいのか。あんな奴に本当に勝てるのか。それでもプレイヤーである自分は救世主がヘリでこちらに向かっていることを知っており、その瞬間を祈るように待っていた。

30Gと二手に分かれる時、ユイナ先輩とはこれで最後なんじゃないかと不安がってお礼の言葉を伝える茅森が切なかった。離れているけれどRINNNEで繋がっていたユイナ先輩は、31Aやユッキーとはまた別の心強い存在として茅森を支えてくれていた。

まさか本当にユイナ先輩を失うことになるのか。不安も大きかったがプレイヤーとしてはがむしゃらに戦いを進めるしかなかった。正直、手持ちの白河部隊ではどうにもできず一度ゲームオーバーして仕切り直すしかなかったが、ゲームオーバーはあの3章のフラットハンド戦以来でむしろここからが本番だと気合いが出た。二部隊戦により31Aばかり育成してきたことが裏目に出てしまったがメタ的にも31Aの特別な強さを実感できた。しかし、めぐみがいれば。

なんとか厳しい連戦を潜り抜けたがスカルフェザーが砕けることはなく、30Gも取り残されたまま強大な追撃を受けようとしていた。撤退も出来ず追い詰められた状況で囮として無茶に飛び出すのは、やはりタマだ。

おいタマ、もういいんだ、もう十分頑張ってる、命を張らなくていい、救世主にならなくていい、めぐみだって君を認める、だからこんなところで死ぬな!

スカルフェザーが目と鼻の先に迫る絶対絶命の中、落としてしまっためぐみの電子軍人手帳に手を伸ばすしかないタマ。手を伸ばしても虎徹丸は帰ってこなかった。今度は自らの命ごと、めぐみへの誓いを失ってしまうのか。

救世主の声が響いた瞬間、嗚咽が止まらなくなった。めぐみは必ず帰ってくる、それは誰よりもめぐみを信じて待つタマの救世主として帰ってくるに決まっていた。待ち焦がれたその瞬間の情動は言葉にならないものだった。

こんなにもめぐみが頼もしく見えたことがあっただろうか。茅森たち一人一人が答えを見つけて立ち上がったように、めぐみだけにしか出せない答えを抱いて「逢川めぐみ」をもう一度歩み出しためぐみは、心が折れて逃げ出したあの日のめぐみじゃない。斬り込み隊の名を完成させる最後の救世主様や。

6人の31Aでスカルフェザーを倒しにかかる。プレイヤーとしてもついにめぐみを編成した6人で戦える。やっと。ラストバトルだというのに号泣しながら、なぜか幸せに満たされるような穏やかな気持ちで戦った。6人で戦えることが嬉しかった。完全体の31Aならスカルフェザーなんかどうにでも出来ると知っていた。最後の死戦なのに、祝福されたエキシビジョンのようだった。

スカルフェザーを倒せた瞬間の解放感ともまた違う静かな歓びは格別なものだった。14日間の長い長い二つの物語がついに交錯したフィナーレ。帰りをすんなりと受け止めてくれる茅森たちと、泣きながら今日までの想いをぶつけてくれるタマ。ルミたちとは離れ離れになってしまったけれど、31Aの仲間もめぐみにとってかけがえのない居場所をくれていた。

めぐみへの想いと向き合い続けてようやく記憶の中の虎徹丸に向き合えたタマは、もう戦艦指揮のために生み出されたデザイナーベビーではなく、國見タマという感情を持つ人間だった。虎徹丸を失った時だってタマには感情があった。感情移入を禁じ続けて生きていたとしても確かにそこには絆があった。気付いたところで虎徹丸は帰ってこないけれど、めぐみは帰ってきた。

過去のめぐみを待ち続けていた母と、今のめぐみを待ち続けていたタマ。めぐみが今の逢川めぐみとして帰るべき場所はタマの元だった。もうどこにも行かへんとタマを抱き締める腕は、自分が守ると誓ったルミを抱き締めた腕だ。忘れられない贅沢な感情を胸に、めぐみはその腕で守るべき全てを守っていく。めぐみを取り戻した31Aと、それぞれの強さを持つ部隊の皆で人類の営みを取り戻す。めぐみは決してこの戦譚から弾き出されることはなかった。

全てを終えて帰還した31Aの部屋にめぐみもいて、6人がShe is Legendとしても復活するのは夢のような光景だった。いつもは殺伐とした歌詞のシーレジェだけど、新曲の歌詞はめぐみとルミ、めぐみとアキ、めぐみとタマが向け合う想いを歌っているようで涙が止まらなかった。習志野ドームにもこの歌がきっときっと届いただろう。こんなにも大団円な結末が待っているとは、めぐみがヘリで行ってしまったあの朝には全く想像できないことだった。

めぐみよ、31Aよ、これから先どれだけ高い障壁が待ち構えているか分からない。最強部隊の31Aとはいえ永遠の別れを避けられるとは限らない。それでも、それよりもっと高い壁を君たちは既に乗り越えている。真実を知っても、信じられないような強さで互いを思い、自分として生きて戦っている。私もドーム住民同様、君たちの戦いを画面越しに見ていることしか出来なくてすまないが、人類の命運を君たちになら任せられると信じる。めぐみの過ごしたかけがえのない夏と、31Aが辿ってきた激動の日々を抱いて、まだ名残惜しいけれど私も先へ進む。

ヘブバン[断章I]感想

 

ヘブンバーンズレッド メインストーリー断章 遠い海の色 ネタバレ感想

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

アイデンティティを喪った時どう自分を取り戻せば良いのか。第四章前編で31Aそれぞれが月歌の前向きさに導かれたり、お互いがお互いの理由になったり、ついに心が折れて戦線を離脱したりしてきたけれど、今度は石井色葉という人格でそれを掘り下げるシナリオだった。この試みというか流れはすごくいいなあと思う。全隊員分やってほしいくらい。

色葉が真実に気付いてしまった様子は4章前編で伺えていて、「色が見える」色葉がそんな世界に放り込まれて大丈夫かと心配していたけど全然大丈夫じゃなかった。大丈夫じゃない色葉を、めぐみを失って大丈夫とはいえない31Aが救い上げられるかこれまた心配だった。

でも31Aは思ったより強くて、いつも通りのバカ騒ぎで段々色葉も元気になっていったし、相変わらず月歌も人の心に寄り添うのが上手かった。ただ月歌の力だけでは色葉の世界に色は戻らず、決定打となったのがカレンちゃんだったのには意表を突かれた。

カレンちゃんが殆ど初めて本音を叫ぶシーン、なんかもう構えていなかった分勝手に涙が出てきて止められなかった。芹澤優さんの名演も名演すぎて(某Key作品の緑川光さんの再来かと思った)一言一言が突き刺さる。手を汚さない可憐がちやほやされる陰でたった一人殺しの刃を磨き、美学で自分を支えながら普段は狂人の振る舞いで孤独を貫いてきたカレンちゃんの長い葛藤の歴史が雪崩れ込んで来る。オイオイ泣いていたらつかさや月歌が泣いていて、そりゃ泣くよね、ともっと泣いた。

カレンちゃんが色葉にシンパシーを抱いたのは、色葉が他者とは違う色覚の世界を生きながら「自分にしか理解できない自分の美学を孤独に極める者」で、だからこそ普段は傾奇者としての鎧を纏っているところも似ていると感じたからかもしれない。自分と同じような茨の道を歩む者がいた。なのに色葉がアイデンティティを喪って力尽きようとしていたからカレンちゃんは怒ったし嫌だったんだろうな。自分が必死で貫いている傍で美学を捨てる人間を見るのは。

美学を貫くには孤独が必要で、そのたった独りの自分が崩れてしまいそうだと立ち止まっているのは一番醜くて、今ここでしゃきっとせい!とカレンちゃんは何度も色葉を鼓舞している。色葉にとっても、自分と似たような仕方で世界と対峙している者がいたのだと分かった上で魂の底から励まされてしまったら、恐れを捨て、目を背けるのを止め、過去を見つめることで今を塗り替え直すしかなかった。あの日の海に向かって最後に背中を押してくれたのはカレンちゃんだった。

本当は母も自分を愛したかったこと、母も世界を救おうとしていたからこそ今の自分が在ること。それを思い出すことが色葉の海を色付けた。最後に色葉が描いた絵の、初めて見る色葉の絵の美しさにまた泣いてしまった。(色葉の言葉に泣きながら麻枝さんの『僕らの海』が脳を掠めてまた泣く) 色葉はたった一人真実を胸に秘めながら、31Dではこれまで通りの明るさで芸術を爆裂させていくのだろうけど、その孤独を別々の場所にいるカレンちゃんや31Aと分け合えたら、封じ込めるのをやめた母親の記憶を誇りに思えたら、31Dで新しい海を目指すなら、きっともう色を見失わないだろう。

31Aは31Aで本当の本当は大丈夫じゃなかったところを、色葉を励まそうとすることで救われたり、新しい色を見せてもらえた。だけど...読み手としてはいつもの31Aっぽいイベントにことごとくめぐみがいないのが結構辛かった。相変わらず"月歌ユキ"と"かれつか"の絆が強調される分、タマがやらかした時にめぐみが助けてもツッコこんでもくれないことが寂しかった。そしてカレンちゃん、あんたなら、一人孤独に救世主たろうとするめぐみを分かってあげられたんじゃないのか?と思ってしまう面もある。

まあそれは四章後編に持ち越しとして...石井色葉とカレンちゃんの掘り下げとしてすごくいい断章だった。音楽も流石に凄い。かわいい部屋着の色葉や、色を取り戻した瞳の輝きも良かった。あと最近熱海に行ったばかりだったから、海辺のホテルが荒廃したビーチの光景にリアルな感傷を抱いた。海は月歌にとってもキーとなる記憶だっただろうから月歌自身の掘り下げにも繋がるのかなあと期待&怖さがある。

そういえばキャンサー戦はぬるっと終わっちゃった感あるけども、覚醒状態のつかさでウォーイェイ!したらシリアスな口調でのウォーイェイになってて芸の細かさにビックリした。色葉はSSが引けずSで挑んだけど逆に序盤の実力差っぽいものを実感できて良かった感...。終わった今だからこそSS石井色葉欲しい!!!(ストーリーと販促の噛み合い方が凄い!!!)

ヘブバン[第四章前編]感想

 

なんて作品だ・・・

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

以下ヘブバン[第四章前編]完全ネタバレ。

未読勢は去られよ。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

 

ラストシーンが脳に突き刺さったまま無理やり眠り、目覚めても現実が変わらなかったことに絶望した。酷暑の朝を歩きながらヘブバンの曲を聴く選択肢しかなかったが、どれも四章前編を過ごす前とは全く違う歌のように響いた。

自分が自分であるというアイデンティティの核、あるいは生き続けている理由、戦う目的、確固たる自信の源。そういうものが一人一人にあって、それがなければ人間は人間として生きていけなくて、それが根本から折られた時人はどうやって自分を支え直すか、あるいはどうやって完全に折れてしまうか、茅森たち一人一人の悩む姿に見せつけられた。

画面のこちら側で自分は人間だと思い込んでいる私でも、「世界五分前仮説」のように私の過去が作られた記憶ではないと証明することは出来ず、そのような揺るぎ方ではないにせよアイデンティティの根幹を剥奪されるような出来事は現実に起こり得る。

そうなった時自分はどうするのか。そうならなくたって今の自分がこの世界で死なずに生きているのは一体何のためなのか、足場を外されるようにふっと分からなくなる感覚があった。茅森達のように仲間=他者との絆を拠り所にするのが人間を最も強く生へと駆り立てるのだろうか。

逢川めぐみは一切の自信を持てない思春期を経てサイキッカー少女として世間の喝采を浴び、そこでようやく得られた自信はサイキッカーとしての無能さを突き付けられることで粉々に砕かれた。当人にとってはとても惨めで、自己肯定感の欠片も残らないくらい削られる日々だったと思う。

そこに突然渡された「救世主になる」という予言が、本当にたった一つの光として、自分が自分として自信を持って生きていくためのたった一つの理由としてめぐみを救ってしまった。スター部隊である31Aの仲間に囲まれながら死線をくぐり抜けて来られたのも本当にそれだけが理由だったのだと思う。どんな瞬間も自分が「救世主様や」と信じられることが、それ以外何もないと信じるめぐみにとっての生命線だった。

そのたった一本の生命線が切られてしまったこと。救世主は自分ではないと知ってしまったことがめぐみの存在理由を粉々に砕いてしまって、救世主逢川めぐみではない自分が一体誰なのかもう分からなくなってしまって、軍の道具として戦わされる茶番に乗る意欲などどこからも湧いて来なくなった。

それでも茅森の言葉で見つけた、今のナービィの自分こそが救世主なのかもしれないという最後の希望も、鼻血を出して倒れた瞬間消え去ってしまった。めぐみの活躍でフラットハンドが倒れたのは事実だが、めぐみが倒れた後鎖の再射出が間に合わなければ全部隊全滅の可能性があったのも事実で、それはめぐみの信じてきた「救世主」の姿ではなかったのだろう。

茅森・タマにとってもプレイヤーにとっても、めぐみは何も相談することなく突然道を選んだように見えたけれど、めぐみは13日間ずっと黙って道を模索して、最後の一日に賭けていたのだろう。13日間ずっと抑えたような声で言葉少なだっためぐみが泣きながら溢した「心が折れた」「救世主になりたかった」という本音に涙が止まらなかった。

月歌達5人が互いを根拠に前を向く決意を導き出せた一方、めぐみにとって31Aが拠り所になれなかったのではなく、無力な自分が仲間を死なせてしまうことを心底恐れるほどには愛していて、だけど自分は「そっち側」で笑うことはもう出来なくて、だから道を分つ決意が出来てしまったのだろう。そんなめぐみを止めることは、希望もないのに人類のために戦わせることはとても出来ない。

それでも私には、私達には、世界の救世主ではなくて、共に生き共に戦う仲間としてのめぐみんが必要だった。この思いは四章後編でもしかしたら届くのかもしれないし、届かないままを描き切る器もヘブバンにはある。

もし私が逢川めぐみだったら。もし私がコピーされた人格だったら。もし私が人間じゃなかったら。そして今を生きているこの私は。
答えが出る問いではないからこそ、持ち続けて生きなければならない。自分の存在理由に真剣に向き合わなければこの物語を読んで行けない。四章後編に向けてゲームの戦力を拡充するのも大事だけど、同じくらい気合いを入れて自分という存在とこの世界との関わりを自分なりに深く哲学しなければ、彼女達の思考に、その奥にいる作者の思考に肉薄することが出来ない。そんな気がする。

ゲームとして、バトル設計も新フィールドもミニゲームも絵もアニメーションも交流シナリオも音楽も、関わっている全てのセクションの方々が気合いに満ちていることがひしひしと伝わってきた。物語の強度が根幹にあって、本気で届けないといけないと思えるからこそ延期してでも最高のものに仕上げるし、鬼のように広告も動かしているんだなと肌で納得した。このチームがクライマックスのその先まで満足いく形で走り抜けられるよう必死で課金していく。

以下雑感。

・またフラハン...と鬱になったけど、三章の苦しい記憶があるからこそ、しっかり作戦立てて全部隊の総力戦で前回より楽にフラハン倒して生還できたのが本当に胸熱で泣いた。

・色んなキャラ育てて準備してきたのにいざ本編来たら31Aしか使う気になれなかった件

・異様なクオリティのミニゲーム

・月歌ユキ結婚おめでとう
・かれつかの新たな関係性が新鮮で尊い

・可憐ちゃんの過去がエグすぎて泣きたい

・基地でおタマさん操作できるの楽し

・「天才歌手」を描写する漫画や小説は多いけど、月歌は実際の歌声にも作詞作曲にも本物の才が使われているからこそ説得力が半端ない

・石井色葉にはどこまで見えているのか。だーまえがシナリオ書いているご様子もあったし楽しみだけど辛そう...

めぐみんダンジョン中のボイスまで全部録り直してて尋常じゃないものを感じていたけど、それが「死」ではなくああいう形に帰結するとは全く予想外で、ノーガードのところにクリティカルを喰らってしまった

・一つの事実によって世界が反転し、ギャグだらけの序盤がどれだけ尊かったか思い知るこの感じ、正統派Key作品だ

・大病からの帰還後、ヘブンバーンズレッドを書きながら恐らく同時期に『神様になった日』『猫狩り族の長』やSatsubatsu Kidsの楽曲を書いていた麻枝さんが、生きるということ、生かされるということにどれだけ切実に向き合って魂をぶつけて来られたのか伝わってきて...

・最後の朝司令官室に向かいながら流れてくる歌、イレギュラーすぎてとにかく取り返しのつかないことが起こってしまったと一瞬で悟らされて、事情が分かる前から涙出て来て、事情を知った瞬間胸に突き刺さって、完全にやられた。ヘブバン史上最高の演出だったかもしれない。

・ヘブバンは麻枝准の最高傑作を更新する可能性が非常にあり、ゾクゾクする

ヘブバン[第三章]感想

言いたいことが溢れて苦しいくらいだから、泣き疲れた今の感情のまま軽くメモしておきたい。

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

以下ヘブバン第三章完全ネタバレ。

未読勢は去られよ。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

フラットハンドが倒せなさすぎて諦めかけてたけど、どうしても続きが読みたくて物凄く頑張って突破したからこそより一層結末が刺さった。

いつも戦闘は面倒だ〜の曲がプレイヤー心情とリンクしてとても励ましてもらえた。戦士としての等身大の想いを綴ってくれたShe is Legendの皆と麻枝准先生に感謝しかない。この曲がかかってなければ心折れてたと思う。

もう本当に、蔵さんと月城さんのお話でここまで泣くことになるとは予期してなかった。

蔵さんの月城ちゃんに対する届かない片想い、月城ちゃんの夢を尊重して定食屋の夢から身を引くまでの慕情。

仲間の死の真相を確かめたいという月城さんの願い、蔵さんに伝えられなかった本当の想い。

最期に蔵さんは月城さんと想いが通じていたことを知り、仲間の死の真相を伝えることも叶った。こんなに切ない救いがあるだろうか・・・。

日常パートで茅森に対して開示されてきた二人の心情がどれほど丁寧で緻密なシナリオを成していたかを最後の最後で思い知らされる、予想外の究極の幕引きにクリティカルヒットを喰らうしかなかった。

それは麻枝さんの書くシナリオの一つの鉄板手法ではあるのだけど、多分女性二人の物語だからか自分の中で今までこういう泣き方はしたことがないという新しい感触もあった。

『猫狩り族の長』の二人と通づるものもあってこの路線凄く好きだし凄く泣いてしまうなと思う。ギャルゲーにおいて恋愛以外の家族や友情のストーリーラインで泣かせるのが麻枝さんの奥義ではあったけどそれが突き詰められる形が女二人の物語なのかもしれない。

蔵さんがもういよいよ助からないと悟った時、聴き覚えのある旋律が流れていることにふと気付く。気付いてしまったらもう涙が止まらない。

往年の麻枝准ファンだけが脳内再生出来てしまう歌詞が蔵さんの想いと重なって重なって・・・。この手腕『神様になった日』とかでもやられたけどマジで破壊力絶大でずるい。

クリアして呆然としながら当然『折れない翼』を聴いて、そのまま『そして物語が終わる』を聴いたらそれも蔵さんと重なって過呼吸になりかけた。もしや『Love Song』をアルバム通しで聴いたらやばいんじゃないか。(まあ今回のBGM自体は5の『永遠』の方のアレンジみたいだったけども)

ラストの衝撃以外も三章は組織の謎に踏み込んでいくワクワク感も凄かったし、作戦中に隠れてイージスタワーを目指すとかめっちゃ好きすぎるやつだった。つかさっちの覚醒もめちゃくちゃ興奮するやつ!

茅森とユッキーの衝突も良かった。茅森が「命」に対して思っていたこと(だーまえみがあった)、ユッキーが皆の訓練中に調べてくれていたこと、ヘリでのやりとり・・・全てが良い。

もう遥か昔に感じるけど山の作戦も面白かった。アニメ『ヤマノススメ』で聞いたことある山がめちゃくちゃ出てきてw  30Gの先輩が一人ずつ付いて手助けしてくれるのが凄く良かった。

31Aの謎の日常イベントも盛り盛りで面白かった。(日曜日に香水付けるのとか。伏線なのか?)30Gとの決起会もクソワロタ。

セリフにヘブバンプレイヤーなりのメタ発言が増えてきたのも笑った。(尺を取るな、自由時間は貴重だろ!的なのとか)

新曲を作る過程を細かく見てきて、やっとライブで実際の曲を聴けた時の感動はひとしおだった。なるほどここが一人だけサビ入るやつー!

本当にライブが良すぎて新しいライブシーンを見続けたいというモチベだけでもヘブバンを走り続けられる。

まあ大変だったけど、絶対に無理だと思っていた三章を突破出来たのなら、絶対に無理な予感しかない四章もきっと突破出来るだろう。

軍の謎、世界観の真実、茅森達の行く末、新曲ライブ、そして麻枝シナリオ。それらのためにここまで努力するというゲーム体験が新鮮で、これは紛れもなく麻枝さんの夢だった「RPG」なのかなと思うと改めて嬉しい。

そして改めて麻枝さんが生きてこんなに刺さるゲームを届けてくれたことが本当に本当にこの世界の祝福だと感じて、こんなに凄い作品があるのなら生きよう、生きたい、と我が人生も鼓舞された。

ヘブバンを作ってくれてる皆様本当にありがとうすぎる。早く麻枝さんにSSユッキー当たりますように。

今夜は蔵さんと月城さんを想いながらLove Songを聴いて寝よう。

Charlotteと9月の追憶

※ネタバレあり

f:id:afterstory:20190911005847j:image

これ以上このアニメを観られないと思った。もう二度と観られないかもしれないと思った。それでも観続けることを選び、観届けた。

そういうことがあったのだという記憶は鮮明に残っているが、「それでも」に何日間を要したのか、結局終始リアルタイムで追いかけていたのか今となっては確かめられない。

Charlotte』に紐付いているその、とある視聴者個人の記憶を私は常に忘れていない訳ではないが9月になると必ず思い出す。けれどそれは記憶の輪郭だけだ。Charlotteの後半、熊耳回のあたりで、リアルで、私が慕って憧れていた恩師、のような人が死んだ、それ以上Charlotteを観続ける覚悟がなかった、それでも観た、それで、観て良かった、そういう記憶。

確かめてみればいい、私が録画していたTOKYO MXでの熊耳回である第11話「シャーロット」の放送は2015年9月12日24時〜(=9月13日0時〜)だった。私の恩師の死はそれより前、つまり10話と11話の間だ・・・しかし通夜・告別式は11話と12話の間だ。

いや違う、私が恩師の死を知ったのは9月13日、と日記に書いてある、朝か夜かは分からない。Charlotteについても記述はない。

9月13日に私は録画されていたCharlotteを観たのか?いや、逝去の報せを受けたのはカフェで本を読んでいた時だ、それはほぼ間違いなく午後、そのまま夕方のバイトに直行したのだから午後だ。 相当キツい心情でバイトを乗り切ったその夜にCharlotteを観たとは思えない。ならば朝観ただろうか。しかし日曜日だ、実家のテレビで朝からCharlotteを再生する隙はあったのだろうか。それとも本当はdアニメストアで観ていたのか。

私がCharlotte11話を観て「この先を観られない」と思った、というのは思い込みで、実は10話の予告あるいはネットの反響で11話の内容を把握したがために「11話を観られない」と思ったのだろうか?

しかし恩師を亡くして打ちひしがれた気分の中で11話を把握していたのは本当だ。でなければ「もう観られない」とは思わない。

だとしたら、そうか、私はCharlotteを、そうだ、録画で観ていたんじゃない、リアルタイムで視聴していたんだ、皆寝静まった実家のリビングで音量を最小限にして、毎週毎週テレビに噛り付いていた______。

24時という時間は自分の家庭の時間感覚ではかなり遅い、だからそんな時間にテレビを付けているはずはない、というのが思い込みで、24時だろうがリアタイするアニメとしてCharlotteは特例で恐らく最後のものだった。現にこれを書いている今24時近いのだし起きていられないはずがない、土曜の夜だ、しかも当時の自分は数年間ニチアサ視聴を中断している期間で、日曜に早く起きる必要がない。リアタイでネットの感想を追った記憶もある。

だから私は逆だった、Charlotte11話を観た重苦しい余韻の中で恩師の死を知ったのだ。私が11話を観ている時恩師は既にこの世にいなかったがそんなことを私は知らずに熊耳の死に触れた、あ書いてしまったがまあいいだろう。この文章をここまでスクロールする人がCharlotte未視聴だとは思わない・・・が冒頭に※ネタバレありと付けよう、クレーム対策、免罪符。

それで私は、恩師が亡くなった、打ちひしがれた、呆然と引き篭もった、通夜の準備で靴を買いに行った、パニックになっていた精神をカフェで落ち着けた、通夜告別式に出て現実と対峙し尚更打ちひしがれた、その日々のどこかで「もうこれCharlotte観られないな」と思った。

熊耳は死んだ、隼翼は残された、その姿を観ていく覚悟がない・・・それでも観たのは何故か、それでも観たのはいつか。9月19日24時にリアタイしたとでも言うのだろうか。

いやその前に夏休みが終わった。学校へ行かなければならなかった、強制的に自分を引っ張るように学校へ行った、朝一で会う用事のある友達がいた、近況報告の流れで恩師の死を話した、そこでやっと気持ちを少し切り替えることが出来た、いわゆる前を向こうという気持ちになった、その友達が私にとっての友利奈緒だった、みたらし状態になった有宇の目を覚まさせた友利奈緒だった。

だから私は「それでも」Charlotte12話を観ることが出来た、どれだけ胸を抉られるとしても観続けたいと思えるまでに気力が戻った、Charlotteを観続けるのが使命であるとすら感じた。それがリアタイだったのか少し遅れたのかは分からない。ただ最終話の13話はリアタイしたように思う。

12話を観て私は何を思ったのだろう。救われた、ような気がするのは記憶を美化しているだけだろうか。しかし自らの苦しみと同質のものを作品内に見出した時___例えば鬱っぽい気分で殺伐とした歌を聴いた時___人に訪れるのは症状の悪化ではなく救済や「ほっ」とした気持ちであるはずだ。

私は12話を観て「もう観られない」とは思わなかった、だから13話まで観届けられた。そうだろう?私が12話に刻み付けたのは苦しいだけの気持ちではなかったはずで、私がその後Charlotte全話に亘る視聴体験自体に紐付けたのも苦しいだけの記憶ではなかった。隼翼は闇堕ちした訳じゃない、死んだ熊耳との対話で背中を押されたんだ。

そういうことだったのか。仔細に思い出した訳でもないが、余りに漠然としたまま毎年強度を上げてきた記憶を一度洗い直すことが出来た。書くという行為の力が証明されたようでCharlotte的だ。スマホで打っているが。

Charlotteという物語が内包する"大事な者の死"という項目を、特別なリアリティで補強し続けられたこの4年間に間違いはない。ただそこに"喪失からの再生"を、大いに強調した形で追加したい。

それで・・・観届けられたとは言ってもやはり「観返せない」状態にあるCharlotteをいつか観返したい。漫画版を読んだり断片的に観たりはしているけれど、全話一気に観直すのはあの頃の気分を強烈に喚起するか上書きして薄れさせるかしそうで勇気がない。目指すこの先に待ってる勇気、

それを手にする絶好のタイミングは近いのか遠いのか分からないがいずれ来るようだ。今一緒にこの世界で生きている大切な方、あのお方もまた私の恩師と言ってもいい、あのお方の新しい物語が日の目を見るその夜明け前に・・・。