Key作品の感想など

Charlotteと9月の追憶

※ネタバレあり

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これ以上このアニメを観られないと思った。もう二度と観られないかもしれないと思った。それでも観続けることを選び、観届けた。

そういうことがあったのだという記憶は鮮明に残っているが、「それでも」に何日間を要したのか、結局終始リアルタイムで追いかけていたのか今となっては確かめられない。

Charlotte』に紐付いているその、とある視聴者個人の記憶を私は常に忘れていない訳ではないが9月になると必ず思い出す。けれどそれは記憶の輪郭だけだ。Charlotteの後半、熊耳回のあたりで、リアルで、私が慕って憧れていた恩師、のような人が死んだ、それ以上Charlotteを観続ける覚悟がなかった、それでも観た、それで、観て良かった、そういう記憶。

確かめてみればいい、私が録画していたTOKYO MXでの熊耳回である第11話「シャーロット」の放送は2015年9月12日24時〜(=9月13日0時〜)だった。私の恩師の死はそれより前、つまり10話と11話の間だ・・・しかし通夜・告別式は11話と12話の間だ。

いや違う、私が恩師の死を知ったのは9月13日、と日記に書いてある、朝か夜かは分からない。Charlotteについても記述はない。

9月13日に私は録画されていたCharlotteを観たのか?いや、逝去の報せを受けたのはカフェで本を読んでいた時だ、それはほぼ間違いなく午後、そのまま夕方のバイトに直行したのだから午後だ。 相当キツい心情でバイトを乗り切ったその夜にCharlotteを観たとは思えない。ならば朝観ただろうか。しかし日曜日だ、実家のテレビで朝からCharlotteを再生する隙はあったのだろうか。それとも本当はdアニメストアで観ていたのか。

私がCharlotte11話を観て「この先を観られない」と思った、というのは思い込みで、実は10話の予告あるいはネットの反響で11話の内容を把握したがために「11話を観られない」と思ったのだろうか?

しかし恩師を亡くして打ちひしがれた気分の中で11話を把握していたのは本当だ。でなければ「もう観られない」とは思わない。

だとしたら、そうか、私はCharlotteを、そうだ、録画で観ていたんじゃない、リアルタイムで視聴していたんだ、皆寝静まった実家のリビングで音量を最小限にして、毎週毎週テレビに噛り付いていた______。

24時という時間は自分の家庭の時間感覚ではかなり遅い、だからそんな時間にテレビを付けているはずはない、というのが思い込みで、24時だろうがリアタイするアニメとしてCharlotteは特例で恐らく最後のものだった。現にこれを書いている今24時近いのだし起きていられないはずがない、土曜の夜だ、しかも当時の自分は数年間ニチアサ視聴を中断している期間で、日曜に早く起きる必要がない。リアタイでネットの感想を追った記憶もある。

だから私は逆だった、Charlotte11話を観た重苦しい余韻の中で恩師の死を知ったのだ。私が11話を観ている時恩師は既にこの世にいなかったがそんなことを私は知らずに熊耳の死に触れた、あ書いてしまったがまあいいだろう。この文章をここまでスクロールする人がCharlotte未視聴だとは思わない・・・が冒頭に※ネタバレありと付けよう、クレーム対策、免罪符。

それで私は、恩師が亡くなった、打ちひしがれた、呆然と引き篭もった、通夜の準備で靴を買いに行った、パニックになっていた精神をカフェで落ち着けた、通夜告別式に出て現実と対峙し尚更打ちひしがれた、その日々のどこかで「もうこれCharlotte観られないな」と思った。

熊耳は死んだ、隼翼は残された、その姿を観ていく覚悟がない・・・それでも観たのは何故か、それでも観たのはいつか。9月19日24時にリアタイしたとでも言うのだろうか。

いやその前に夏休みが終わった。学校へ行かなければならなかった、強制的に自分を引っ張るように学校へ行った、朝一で会う用事のある友達がいた、近況報告の流れで恩師の死を話した、そこでやっと気持ちを少し切り替えることが出来た、いわゆる前を向こうという気持ちになった、その友達が私にとっての友利奈緒だった、みたらし状態になった有宇の目を覚まさせた友利奈緒だった。

だから私は「それでも」Charlotte12話を観ることが出来た、どれだけ胸を抉られるとしても観続けたいと思えるまでに気力が戻った、Charlotteを観続けるのが使命であるとすら感じた。それがリアタイだったのか少し遅れたのかは分からない。ただ最終話の13話はリアタイしたように思う。

12話を観て私は何を思ったのだろう。救われた、ような気がするのは記憶を美化しているだけだろうか。しかし自らの苦しみと同質のものを作品内に見出した時___例えば鬱っぽい気分で殺伐とした歌を聴いた時___人に訪れるのは症状の悪化ではなく救済や「ほっ」とした気持ちであるはずだ。

私は12話を観て「もう観られない」とは思わなかった、だから13話まで観届けられた。そうだろう?私が12話に刻み付けたのは苦しいだけの気持ちではなかったはずで、私がその後Charlotte全話に亘る視聴体験自体に紐付けたのも苦しいだけの記憶ではなかった。隼翼は闇堕ちした訳じゃない、死んだ熊耳との対話で背中を押されたんだ。

そういうことだったのか。仔細に思い出した訳でもないが、余りに漠然としたまま毎年強度を上げてきた記憶を一度洗い直すことが出来た。書くという行為の力が証明されたようでCharlotte的だ。スマホで打っているが。

Charlotteという物語が内包する"大事な者の死"という項目を、特別なリアリティで補強し続けられたこの4年間に間違いはない。ただそこに"喪失からの再生"を、大いに強調した形で追加したい。

それで・・・観届けられたとは言ってもやはり「観返せない」状態にあるCharlotteをいつか観返したい。漫画版を読んだり断片的に観たりはしているけれど、全話一気に観直すのはあの頃の気分を強烈に喚起するか上書きして薄れさせるかしそうで勇気がない。目指すこの先に待ってる勇気、

それを手にする絶好のタイミングは近いのか遠いのか分からないがいずれ来るようだ。今一緒にこの世界で生きている大切な方、あのお方もまた私の恩師と言ってもいい、あのお方の新しい物語が日の目を見るその夜明け前に・・・。